昔の話3

私がまだ小学生の頃、お兄さん、と呼んで慕っていた男の人がいました。その人はいきなり現れて、気付いたら一緒に生活していて、テレビゲームをして遊んでくれたり、外へ遊びに連れて行ってくれたり、私とお姉ちゃんが喧嘩をしたら話を聞いて仲直りさせてくれるような優しい人でした。私はその人の事が大好きでした、その好きはきっと、保育園の先生や学校の担任の先生を好きになるようなものだったのだと思います。今思えば、お兄さんはお母さんの彼氏だったのかもしれません。そんなお兄さんとの別れは突然でした。お仕事の都合で転勤になってしまったらしく、小さかった私はそんな事理解出来る訳もなく、ただただ置いていかれる事が悲しくて、お兄さんとバイバイした日の夜に泣きながら目を覚ましました。その時、お母さんがお兄さんと電話を繋げてくれてお話したことを覚えています。

 

昔から何故かは分からなかったけど、「見放される」「置いていかれる」そういった類の言動が泣くほど苦手でした。小学校低学年の頃、お母さんが早く帰ってくる日を勘違いして学童保育に行かずにそのまま帰ってきた時、家の鍵が開いていなかった為に入ることが出来ないことがありました。鍵っ子でもなかった私は大パニックでした。自分が勘違いしているという事実に気付かずに、「何でお母さん居ないの、どこ行っちゃったの」と玄関先で号泣していたところ、近所の方に保護されました。その方のお家で水戸黄門を見ていた事は覚えています。思い返すと黒歴史黒歴史、その時のおばさんには感謝しかありません。中学生になって遊びに出掛けた時帰るのが少し遅くなってしまったことがあったのですが、その時も尚、必死に自転車をこぎながら頭の中では「お母さんに見放されてしまうかもしれない」という思考に支配されてしまい半泣きで帰った事もありました(お母さんにそれを話したら笑われましたが)。

 

 

 

 

働き始めて三年目。20歳の冬。姉から伝え聞いた真実。公私共に、こんなに嫌な事が重なるのか…厄年なのかな、と思いました。

 

それは私が生まれる前の話から始まりました。

 

お母さんと姉のお父さんが結婚し、姉が産まれました。暫くして二人は離婚。祖母と母で姉を育てていたそうです。

母が務めていた仕事先でお客さんとしてやって来たのが、私のお父さんだったそうです。

私は、その時自分と姉が種違いなのだと初めて知りました。

確かに姉妹にしては私と姉は顔があまり似ていないなーと思ってはいました。けれど別に種違い、腹違いでなくとも似てない兄弟や姉妹、探せばごまんと居るでしょう。私もずっとそう考えていたからこそ、似てないことも昔は冗談交じりに「本当に似てないよね、どっちか橋の下から拾われてきたのかも」とか笑いながら言えてました。母はどんな気持ちでこの言葉を聞いていたのでしょうか、考えすぎかもしれませんが。

 

そして、母と私のお父さんの間に私が出来ました。…出来てしまいました。順序云々はさておいて、先に子供を授かる事に対して特に否定はしません。それは勿論、まずお互いが独り身であるのならばが前提としての話ですが。

父には、既に奥さんが居ました。

私のお母さんとは別の、きちんと結婚している奥さんが。

なのに、私が出来てしまったんです。

父は私のお母さんに、「今の奥さんとは離婚するから、一緒に暮らそう」と言っていたそうです。祖母は猛反対だったそうです。当たり前ですよね、私もそう思います。

けれど、ある日保育園へと姉を迎えに行った祖母が先生から言われた言葉。

「お母さんがお迎えに来られましたよ、今日で最後にしますって仰ってました」

嫌な予感のした祖母が家に帰ってみると、私も姉も母も居らず、もぬけの殻だったそうです。

かけおち、でした。

 

私のお父さんと、母と姉と私で暮らし始めました。けれどそれも短い間の事でした。お父さんの奥さんがそれを許してくれるはずありませんでした。自分を置いて他の女と子供を作ってあまつさえ一緒に暮らすから貴女を捨てますごめんなさいなんてまかり通るはずがないんです。

結局、父は奥さんの元へ戻りました。

私と、お母さんを置いて。

ただただする事だけして、結婚もせず、離婚もせず、責任も果たさず、自分だけが元の生活にのんきに戻りやがったんです。

 

残された私達三人はどうする事も出来ませんでした。幼い私と姉を抱えてお母さんだけで家賃が払えるはずもなくて、すぐに出て行くことになりました。引越しをする為の資金や滞納した家賃を全て肩代わりしてくれたのが、祖母でした。もう、頭が上がりませんよね。

 

そこまでの話を姉から伝え聞いた私の口からはキャパオーバーと感情が迷子すぎる故の謎の笑いと「どこの昼ドラだよ」という言葉だけしか出てきませんでした。