昔の話6

引きこもるようになってから、物事や人への興味意欲関心がパッタリと無くなり、無趣味になりました。することも無く、かと言って外にも出られず、一日中無音の部屋の中で体育座り。私の部屋には時計が無く、時間が経っているのかすらも分からなくなるために、TVだけはつけていました。消音にして、見もしないTV。視界の端でころころと色が変わるという事だけが、確実に時間が経っているのだと私に知らせてくれました。

 

働けない事への罪悪感に押し潰されそうになり、人への不信感から孤独に苛まれ、死にたいのに死ぬ事は出来ない、体調も毎日悪くて動けない、そんな毎日。いつしか私は、少しでも楽になれるのならと薬に頼る考えに至りました。解放されたかったんだと思います。けれど、一人では精神科にも行けない。とても悩みました。悩んで悩んで、悩んだ末に、祖母に電話をかけました。思えば祖母と会話をするのも久しぶりでした。電話口で聞こえる祖母の声に心が揺らいだ私は、思わずこんなことを聞いていました。

 

「私って、家族なの?私、必要なのかなぁ?」

 

すかさず祖母から返ってきた答えは

 

「え?何言ってるの、当たり前でしょう?」

 

その言葉がとてもあったかくて、ふにゃふにゃになっていた心に柔らかく染み込んでいき、堪えきれずにまた涙が出ました。泣きながら謝り続ける私に、困った祖母の悲しそうな心配そうな声が聞こえて余計に胸が苦しくなりました。「家に帰りたくない、居たくない」と訴えた私のわがままを聞いてくれて、祖母はしばらく家に泊めてくれました。そしてその日の夜、会社の事だけを話しました。過去の話は、する勇気はありませんでした。祖母は私の話を跳ね除けずに聞いてくれて、それから自分の昔話を聞かせてくれました。一緒に、精神科に行ってくれることになりました。

 

 

精神科に行って先生と現状の体調について、希死念慮について、原因について、色々な事を話しました。診断された結果は「抑うつ状態」でした。薬を出してもらい、通院するにあたって先生と「絶対に死なない」「死ぬ事をもし考えてしまっても絶対に行動に移さない」と約束しました(それが約束出来ないなら入院してもらいますと言われました)。

薬との相性もあり、先生と相談しながら何度か薬を変えつつ通院を続けました。また、治療中の旨を会社の総務に報告、連絡をとりました。

 

治療費や保険料、生活費で貯金もどんどん減っていき、ついには底をつきました。その頃にお兄ちゃん(叔父さん)と話をする機会がありました。お兄ちゃんには会社の事、自分の過去の事、過去を聞いた事を母や祖母に話せないでいる事、全部を話しました。

 

「○○は優しい子だからなぁ…」

 

そう呟かれた言葉にまた涙が溢れました。優しいなんて言われる権利、私には無い。そんな気持ちでいっぱいでした。

お兄ちゃんは私の事をどうして庇ったのかは覚えていなかったみたいですが、それでもやっぱりとても親身になってくれて、その後も会社を辞めてからも色々と心配してくれました。

 

薬を飲み、散歩をしたりヒーリングの音楽を聞いたりして治療をしながら、行けそうな時は会社にも行きました。部署を変えてくれたり、午前中のみの勤務で体をならしてくれたり、フォローしてくださったのですがやっぱり本調子に戻る事が出来ずにいよいよ会社を辞めることにしました。

 

本当は辞めるつもりはなく、這ってでも働かなければいけないと思い込んでいたのですが、母に「会社辞めてもいいよ」と言われた時は正直驚きました。母の性格上、絶対に許してくれないと思っていたからです。でも私の現状(ほぼ一年間休養状態)を見て「だって無理でしょ、仕方ない」と判断したそうです。

 

必要無いと判断される材料がこれでまた一つ増えるんじゃないかという不安と、これでもう姿を見るだけで体が震えて声を聞くだけで頭が真っ白になるあの先輩に会わなくて済むんだという安堵が入り交じった複雑な気持ちでした。

 

22歳の冬の事でした。