昔の話7

仕事を辞めてから精神状態は特に回復があった訳でもなくて、しばらくの間は辞める前と何ら変わりのない毎日を送っていました。

朝起きて、ボーッとして、無音のTVをつけて、外からの光に消えてしまいたくなる気持ちが溢れて、決められた薬を飲んで、家には一人、部屋の中で体育座り。常に希死念慮が頭にあって、考えが変な方向に行きそうな時には動画サイトでヒーリングや脳波を整えるような音楽を聞いて気を紛らわせたり、何度も読んだ本を読み返したりしていました。動かないからお腹は減らないし体力は無くなっていく一方、ご飯は食べられないから工夫して、流し込めるスープやお粥ばかり。家族と会話もないまま、夜になったら睡眠薬で眠っていました。一人でいるとどうも思考の海に流されて、塞ぎ込みすぎた反動かふとした事で涙腺が崩壊するんです。こんな事で?って自分でも引くほど驚くような些細な事で涙が勝手に溢れてしまうんです。それが一番強くなるのが夜なので、刺激を受ける前に無理矢理薬に逃げるしかありませんでした。そんな毎日でした。死にたくてたまらなかったし、寧ろ殺してほしいくらいでした。夜眠ってる間に誰かに殺されていたらなぁとほぼ毎日のように思いながら床で眠りました。

 

 

私は中学生くらいの頃からNONSTYLEが好きで、よく漫才を見ていました。でも公私のゴタゴタをきっかけにTVでも何を見ても聞いても笑えない。何も面白くない。何も楽しくない。誰と居ても、何をしてても。好きだった事への興味は薄まり、趣味も無くなり、何も手につかない。端的に言うとこの世に対する執着や未練になるような、もう少しだけ生きたいと感じられるような、例えば好きな漫画の続きが来週も読みたいだとか、そんな引き止めるものが何も無くなった状態で。喜怒哀楽の何も感じませんでした。その頃の私は大袈裟ではなく、表情筋と感情が死んでいたと言ってもいいと思います。

 

また頭の中がぐるぐるし始めてヒーリングの音楽を聞いていたある日、なんとなしに(もしかしたらNONSTYLEなら見れるのかな)と思い至り、少しだけ検索してみたらライセンスというコンビとNONSTYLEのコラボトークが引っかかりました。その時の私は(ライセンス?あぁ…お姉ちゃんが昔好きだった芸人か)くらいにしか思っていませんでした。その程度の気持ちだった私を変えてくれたきっかけはそこからだったのかもしれません。BGM代わりといってはなんですが、そのくらいの気持ちでその動画を開きました。

 

NONSTYLEと、見た事あるような無いような、二人。藤原…あぁ、この人がお姉ちゃんがファンだった人か。ふーん…。

 

その動画を見ていても結局笑う事は出来なくて、でも確かにトークのテンポはきっと元気な状態で聞いてたら凄く好きだったろうなぁ、という感じでした。私はその後も関連動画にあった動画をまたBGMとして流していました。

 

音にしんどくなったり無理になったら切ればいいし。

時間は馬鹿みたいにあるし。

別に、もうなんでもいいや。

 

膝を抱えて顔を伏せながらほぼラジオ状態。

どのくらいそうしていたか分かりませんが、割と早めに「その人達」を知りました。どうやら凄い人がいる。その人はとてつもなくアホだと。ライセンス井本さんの口から語られるエピソードの数々に内心「へぇ…凄いな…そんな人いるんだ」と思いました。エピソードは共通して、全てが真っ直ぐ。ピュアというか、馬鹿正直というか、色んな人から好かれて、ちょっとズレてるけど、我が道を行っているというか、自分に対して誠実というか、本当に…思い込んだらまっしぐら、みたいな。昔のギャグ漫画にありそうな、主人公みたいな人だと思いました。正直とても羨ましくなりました。そんな風に生きれたらなと。顔は知らない「森木」さん。他の動画でも度々「森木」さんのおバカエピソードは語られて、時折聞こえる「重岡」さんはどうやら「森木」さんの相方らしいとか、面倒見の良い方だとか、お酒を飲むと大変な事になるとか、真面目だけど口が悪いだとか、他にも色々。

 

…どんなコンビなんだろうか、この人達は。

とても久しぶりに、人への関心と興味がわきました。

 

昔の話6

引きこもるようになってから、物事や人への興味意欲関心がパッタリと無くなり、無趣味になりました。することも無く、かと言って外にも出られず、一日中無音の部屋の中で体育座り。私の部屋には時計が無く、時間が経っているのかすらも分からなくなるために、TVだけはつけていました。消音にして、見もしないTV。視界の端でころころと色が変わるという事だけが、確実に時間が経っているのだと私に知らせてくれました。

 

働けない事への罪悪感に押し潰されそうになり、人への不信感から孤独に苛まれ、死にたいのに死ぬ事は出来ない、体調も毎日悪くて動けない、そんな毎日。いつしか私は、少しでも楽になれるのならと薬に頼る考えに至りました。解放されたかったんだと思います。けれど、一人では精神科にも行けない。とても悩みました。悩んで悩んで、悩んだ末に、祖母に電話をかけました。思えば祖母と会話をするのも久しぶりでした。電話口で聞こえる祖母の声に心が揺らいだ私は、思わずこんなことを聞いていました。

 

「私って、家族なの?私、必要なのかなぁ?」

 

すかさず祖母から返ってきた答えは

 

「え?何言ってるの、当たり前でしょう?」

 

その言葉がとてもあったかくて、ふにゃふにゃになっていた心に柔らかく染み込んでいき、堪えきれずにまた涙が出ました。泣きながら謝り続ける私に、困った祖母の悲しそうな心配そうな声が聞こえて余計に胸が苦しくなりました。「家に帰りたくない、居たくない」と訴えた私のわがままを聞いてくれて、祖母はしばらく家に泊めてくれました。そしてその日の夜、会社の事だけを話しました。過去の話は、する勇気はありませんでした。祖母は私の話を跳ね除けずに聞いてくれて、それから自分の昔話を聞かせてくれました。一緒に、精神科に行ってくれることになりました。

 

 

精神科に行って先生と現状の体調について、希死念慮について、原因について、色々な事を話しました。診断された結果は「抑うつ状態」でした。薬を出してもらい、通院するにあたって先生と「絶対に死なない」「死ぬ事をもし考えてしまっても絶対に行動に移さない」と約束しました(それが約束出来ないなら入院してもらいますと言われました)。

薬との相性もあり、先生と相談しながら何度か薬を変えつつ通院を続けました。また、治療中の旨を会社の総務に報告、連絡をとりました。

 

治療費や保険料、生活費で貯金もどんどん減っていき、ついには底をつきました。その頃にお兄ちゃん(叔父さん)と話をする機会がありました。お兄ちゃんには会社の事、自分の過去の事、過去を聞いた事を母や祖母に話せないでいる事、全部を話しました。

 

「○○は優しい子だからなぁ…」

 

そう呟かれた言葉にまた涙が溢れました。優しいなんて言われる権利、私には無い。そんな気持ちでいっぱいでした。

お兄ちゃんは私の事をどうして庇ったのかは覚えていなかったみたいですが、それでもやっぱりとても親身になってくれて、その後も会社を辞めてからも色々と心配してくれました。

 

薬を飲み、散歩をしたりヒーリングの音楽を聞いたりして治療をしながら、行けそうな時は会社にも行きました。部署を変えてくれたり、午前中のみの勤務で体をならしてくれたり、フォローしてくださったのですがやっぱり本調子に戻る事が出来ずにいよいよ会社を辞めることにしました。

 

本当は辞めるつもりはなく、這ってでも働かなければいけないと思い込んでいたのですが、母に「会社辞めてもいいよ」と言われた時は正直驚きました。母の性格上、絶対に許してくれないと思っていたからです。でも私の現状(ほぼ一年間休養状態)を見て「だって無理でしょ、仕方ない」と判断したそうです。

 

必要無いと判断される材料がこれでまた一つ増えるんじゃないかという不安と、これでもう姿を見るだけで体が震えて声を聞くだけで頭が真っ白になるあの先輩に会わなくて済むんだという安堵が入り交じった複雑な気持ちでした。

 

22歳の冬の事でした。

昔の話5

その日から色んな事が変わりました。

朝起きてから一日中怯え、家に居ても、会社に向かうまでの間も、帰る途中の道も、いつ何時も考えている事は希死念慮。ただただ、死に方だけを探していました。辛くて苦しくて、楽になりたくて。自分の存在自体を無かったことにしたくて、消えてしまいたくて。電車にはねられたら。車にはねられたら。ホームで誰かが背中を押してくれたなら。足を一歩前に進めてしまえたら。このベランダから飛び降りてしまえたら。寝てる間に誰かが包丁で殺してくれたら。薬の多量服用で死ねたら。頭の中では自分を何度も殺しました。

 

仕事中は気を抜くと勝手に涙が出てくるので職場の人にバレないように堪えながら働き、休憩中にトイレやロッカールームなど人目につかない場所で毎日のように泣きました。

涙腺が壊れた、と思いました。

これまでは怒鳴られても「こなくそ!こんな奴の前で泣いてたまるか!」という負けず嫌いな面が出て絶対に弱みを見せないように気丈にふるまえました。

けれど、一度完全に心がポッキリと折れてしまってから、こんなに涙脆い人間じゃなかったはずなのに毎日毎日、時も場所も考えずに涙が溢れ出てきて、それを誰かに見られないように家族にも職場の人にもバレないように、隠れて泣き続けました。

そんな毎日を送るうちに、ご飯が喉を通らなくなりました。なにか食べようとすると気持ち悪くなり、口も動かせないし手も動かない。食べよう、という気力がわかない、寧ろ食べたくない。拒食症なのかな、と思いながらも母に怒られながら時間をかけて冷たくなったご飯を無理やり咀嚼する日々でした。吐いて戻すこともままありました。

拒食症と並行して、不眠症になりました。夜布団に入っても眠れない。どころか色んな事が頭の中を巡り続けてまた吐き気に襲われ、頭痛、耳鳴り、ついぞ横になっている事すらしんどい状態になりました。今まで使っていたベッドが使えなくなり、床に座って柵にもたれたり、ベランダに出てみたり、ずっと考え事をしていたら外が白んでいる事も沢山ありました。寝なきゃ、と思えば思うほど眠れなくて、これまでどうやって眠っていたのかとか、目を瞑り続けることがこれ程までに辛かったっけとか、本当に苦痛でたまりませんでした。

 

祖母いわく、その頃の私は痩せ過ぎていて頬もこけていて心配だったそうです。

 

けれど、そんな状態でも私は家族に何も言えませんでした。死にたい。けれど働かなければいけない。甘えてる自分が悪い。私より辛い人なんてもっといっぱい居るんだからもっと頑張らないといけない。でも、頑張れない。怒られる。困らせる。見放される。ただでさえ要らない子なのに、これ以上役に立たなければ…。

 

いっぱいいっぱい抱え込んでいたら、笑う事が出来なくなりました。何を見ても何を聞いても楽しくない。TVを見ていてもちっとも面白くない。誰かと話すことも出来なくなりました。人の顔が見られなくなりました。人の声を聞くことがとても恐怖になりました。人の笑い声が全部自分をさしてるような錯覚に陥りました。一緒に暮らしている姉や母にさえ怯えるようになりました。

電車などの公共の場で沢山の人に囲まれると体が震えだしてしゃがみこんでしまう程、対人に対しての免疫力が低下しました。

その結果、ちまちまと行っていた会社にも完全に行けなくなり、引きこもるようになりました。最初こそは怒っていた母も段々と何も言わなくなり、ある日「遅刻してもいいから、行きな?」と優しく言われた瞬間に堪えていたものが一気に溢れ出して、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けながら初めて母の前で泣きました。母は仕事に行く直前だったので、そのまま出て行きました。私は母に背中を向けていたので、その時の母の顔を見ていません。せめてその言葉だけは守ろうと思い、泣き止んで落ち着いてから会社に連絡をすると、「声が辛そう、そんなに無理して来なくても大丈夫だよ?」と困った声。泣きたくないのにまた涙が止まらなくなりました。それでこちら側が泣くのはお門違いだと分かっているのに、一度壊れた涙腺は勝手に決壊するようになって、馬鹿みたいに涙が出ました。まるで私は自分が悲劇のヒロインぶっているような思いになり、自己嫌悪が止まりませんでした。

 

その頃の私は、一生分泣いたんじゃないかと思う程でした。

昔の話4

父が出て行ってから、祖母は暫くの間私の事を良く思ってなかったそうです。まあ籍も入れず、する事だけして出来ちゃった成行きの子供を無条件で突然受け入れろっていうのは急には難しいだろうなと思います。ただでさえ父親の事を良く思っていないのに。その事を知ったのも、とてもショックでした。昔から面倒を見てくれて、色んなところに連れていってくれて、ご飯も一緒に食べに行ったりするおばあちゃんに、本当は昔嫌われていた。しかも、私ではどうすることも出来ない理由で。けれど、お兄ちゃん(叔父さん)の言った「この子も姉さんの子供なんだから」という言葉で考えを改め受け入れてくれたそうです。私はお兄ちゃんが居てくれなかったら今頃どうなっていたのかも、今も考えたくありません。

分かってるんです。今も本当の本当に本気で嫌いだったら、面倒なんて見てくれていないし、ご飯にも遊びにも一緒に行ってくれないなんて事は分かってるんです。けれど、その時の私には恐怖で、不安で仕方ありませんでした。家族という心の拠り所が壊れてしまうと思ったんです。おばあちゃんは私の事をどう思ってるのか。まだ嫌いなんじゃないか。家族だと思ってたのは私だけで、本当はずっと…。今も、時々そんな考えがよぎります。

 

生い立ちを聞いたその瞬間こそは、笑えたんです。寧ろ笑うしかなかったんです。だって許容出来る容量なんか会社のごたごたでとっくに超えていて、言葉通りまるで作られたそんなドラマみたいな話をすぐにはいそうですかと受け入れられるほど物分りは良くないし、残念ながらそんなに都合よく出来ていないんです。

話を聞いた日、帰ってきて、布団の中で真っ暗闇の中たった一人になって、聞いた話が頭の中を巡りました。その時の私は、現状と過去を照らし合わせてしまいました。今、自分がこんな事になっているのは元を辿ればクズな父のせいだと。

父が私のお母さんと出会わなければ。

私のことを生まなければ。

私なんか生まれて来なければ。

他に流産していた兄か姉が私の代わりに生まれてきてくれて、私が流産していれば良かったのに。

おろしてくれれば良かったのに。

会社にも行けなくなっているこんな失敗作。

働かなくちゃいけないのに働けない、甘えて逃げてる失敗作。

そんな奴が会社で追い詰められたくらいで仕事も出来ずに食い扶持だけ削って、大好きな家族を苦しめるなんてあっちゃいけないのに。

お金を稼げるなら私じゃなくても良かった。

私が生きていなくちゃいけないのはお金が必要だから。

生まれてきたのが私じゃなければ。

きっともっと上手くいったのに、家族は幸せになれたかもしれないのに。

ごめんなさい。ごめんなさい。私なんかが娘で、妹で、孫で、姪で、ごめんなさい。

もっとまともな人間だったら面倒かけなかったのに。

こんなクズ過ぎる自分のせいで大好きな家族に迷惑かけてるのかと思うと情けなくて申し訳なくて、惨めだ。

 

父親に捨てられた?

母親には騙されていた?

姉とは半分他人だった?

祖母には嫌われていた?

私は祝福されずに生まれてきたんだ。

別に必要のない要らない子だったんだ。

誰からも愛されていなかった。

なら、何の為に今生きてる。

どうしてこんな仕打ちを受けてる。

それでもなお私が生きる理由ってあるのかな。

何で私はここに居るの。

お兄ちゃんはどうして私なんかの事庇ってくれたの。

もう何を信じればいいのか分からない。

この先どう生きればいいのか分からない。

この世界は、とても気持ち悪い。

 

自己の存在否定、自問自答、八つ当たり、父親への憎悪、現実逃避。ありとあらゆる感情や思考が止まりませんでした。

 

その夜私は、姉と母に気付かれないように布団の中で声を殺して泣きました。

昔の話3

私がまだ小学生の頃、お兄さん、と呼んで慕っていた男の人がいました。その人はいきなり現れて、気付いたら一緒に生活していて、テレビゲームをして遊んでくれたり、外へ遊びに連れて行ってくれたり、私とお姉ちゃんが喧嘩をしたら話を聞いて仲直りさせてくれるような優しい人でした。私はその人の事が大好きでした、その好きはきっと、保育園の先生や学校の担任の先生を好きになるようなものだったのだと思います。今思えば、お兄さんはお母さんの彼氏だったのかもしれません。そんなお兄さんとの別れは突然でした。お仕事の都合で転勤になってしまったらしく、小さかった私はそんな事理解出来る訳もなく、ただただ置いていかれる事が悲しくて、お兄さんとバイバイした日の夜に泣きながら目を覚ましました。その時、お母さんがお兄さんと電話を繋げてくれてお話したことを覚えています。

 

昔から何故かは分からなかったけど、「見放される」「置いていかれる」そういった類の言動が泣くほど苦手でした。小学校低学年の頃、お母さんが早く帰ってくる日を勘違いして学童保育に行かずにそのまま帰ってきた時、家の鍵が開いていなかった為に入ることが出来ないことがありました。鍵っ子でもなかった私は大パニックでした。自分が勘違いしているという事実に気付かずに、「何でお母さん居ないの、どこ行っちゃったの」と玄関先で号泣していたところ、近所の方に保護されました。その方のお家で水戸黄門を見ていた事は覚えています。思い返すと黒歴史黒歴史、その時のおばさんには感謝しかありません。中学生になって遊びに出掛けた時帰るのが少し遅くなってしまったことがあったのですが、その時も尚、必死に自転車をこぎながら頭の中では「お母さんに見放されてしまうかもしれない」という思考に支配されてしまい半泣きで帰った事もありました(お母さんにそれを話したら笑われましたが)。

 

 

 

 

働き始めて三年目。20歳の冬。姉から伝え聞いた真実。公私共に、こんなに嫌な事が重なるのか…厄年なのかな、と思いました。

 

それは私が生まれる前の話から始まりました。

 

お母さんと姉のお父さんが結婚し、姉が産まれました。暫くして二人は離婚。祖母と母で姉を育てていたそうです。

母が務めていた仕事先でお客さんとしてやって来たのが、私のお父さんだったそうです。

私は、その時自分と姉が種違いなのだと初めて知りました。

確かに姉妹にしては私と姉は顔があまり似ていないなーと思ってはいました。けれど別に種違い、腹違いでなくとも似てない兄弟や姉妹、探せばごまんと居るでしょう。私もずっとそう考えていたからこそ、似てないことも昔は冗談交じりに「本当に似てないよね、どっちか橋の下から拾われてきたのかも」とか笑いながら言えてました。母はどんな気持ちでこの言葉を聞いていたのでしょうか、考えすぎかもしれませんが。

 

そして、母と私のお父さんの間に私が出来ました。…出来てしまいました。順序云々はさておいて、先に子供を授かる事に対して特に否定はしません。それは勿論、まずお互いが独り身であるのならばが前提としての話ですが。

父には、既に奥さんが居ました。

私のお母さんとは別の、きちんと結婚している奥さんが。

なのに、私が出来てしまったんです。

父は私のお母さんに、「今の奥さんとは離婚するから、一緒に暮らそう」と言っていたそうです。祖母は猛反対だったそうです。当たり前ですよね、私もそう思います。

けれど、ある日保育園へと姉を迎えに行った祖母が先生から言われた言葉。

「お母さんがお迎えに来られましたよ、今日で最後にしますって仰ってました」

嫌な予感のした祖母が家に帰ってみると、私も姉も母も居らず、もぬけの殻だったそうです。

かけおち、でした。

 

私のお父さんと、母と姉と私で暮らし始めました。けれどそれも短い間の事でした。お父さんの奥さんがそれを許してくれるはずありませんでした。自分を置いて他の女と子供を作ってあまつさえ一緒に暮らすから貴女を捨てますごめんなさいなんてまかり通るはずがないんです。

結局、父は奥さんの元へ戻りました。

私と、お母さんを置いて。

ただただする事だけして、結婚もせず、離婚もせず、責任も果たさず、自分だけが元の生活にのんきに戻りやがったんです。

 

残された私達三人はどうする事も出来ませんでした。幼い私と姉を抱えてお母さんだけで家賃が払えるはずもなくて、すぐに出て行くことになりました。引越しをする為の資金や滞納した家賃を全て肩代わりしてくれたのが、祖母でした。もう、頭が上がりませんよね。

 

そこまでの話を姉から伝え聞いた私の口からはキャパオーバーと感情が迷子すぎる故の謎の笑いと「どこの昼ドラだよ」という言葉だけしか出てきませんでした。

昔の話2

会社に行けなくなった私の異変を上司が気にし、ある日帰ろうとしていた所を呼び止められました。誰かに「どうかしたの?何かあったの?」と聞かれることは何度かあったけど、会社の人を信じる事が出来なくなっていた私は一貫してだんまりを決め込んでいたので、隠しているつもりではいたのですがやはり薄々原因を気付かれてはいたようで

「(リーダー)さんのことだよね?」

開口一番、言われました。既に仕事に支障も出始めていて、リーダーに直接この話がいってしまったら更に恐ろしい事態になるんじゃないかとすら恐れました。そうなると隠し通していても仕方ないと思い、渋々話しました。話してる間にぼろぼろ涙が出てきて、泣きたい訳じゃないのに勝手に涙が出て止まらないなんて事があるんだと内心驚きました。人前で泣いたり、ましてや相談なんかしたら甘えてると言われると思っていたのに上司の対応は優しくて丁寧で、困惑しました。人前で泣くことはズルいことだと、自己嫌悪に陥りました。

 

私は、会社での出来事をお母さんに相談する事をしませんでした。話した所で返ってくる言葉は「そんなのどこに行ったって一緒だよ」の一点張りだということが今までの経験談で分かっていたからです。話を聞いてほしい、気持ちとしてはそれだけでも、打ち明けたものをシャットアウトして跳ね返されるのはとてもつらいものがあるし、話すこと自体に疲れてしまうのが嫌で、これ以上余計な精神疲労を重ねたくなくてずっと一人で抱えていました。

 

お姉ちゃんは同じ家には住んでいますが食事を共にする事が無くなり、同じ時間を過ごす事も少なくなり、お互いにどんな現状なのか、今は何が好きで何が嫌いで、必要最低限の会話しか交わさないような、何も把握していない状態でした。

 

会社でのいざこざを解決出来ないまま数ヶ月経ち、ある日お姉ちゃんと出掛ける機会がありました。

その際に姉から言われた言葉は、私にとって青天の霹靂でした。

「あのさぁ、驚かないで聞いてほしいんだけど…おばあちゃんはお前にはまだ言うなって言ってたんだけど」

その先を聞いた時、頭の中が真っ白になりました。次々に聞かされる過去の出来事を聞いてる内によく分からない笑いすらこみ上げてきて、ただただ言葉を失いました。

 

20歳の冬の事でした。

昔の話1

私の家は母子家庭です。

物心ついた時からお母さんとお姉ちゃんと私の三人で暮らしていました。近くにはおばあちゃんとお兄ちゃん(叔父さん)が暮らす家もあって、幼い頃は仕事で家を空けるお母さんの代わりに夜はおばあちゃんが家に来てくれました。お母さんは仕事の影響で昼夜逆転生活なので、学校の行事とか授業参観は滅多に来れず、私は学童保育に通っていました。

家に帰ると寝てるお母さんが起きるのを待って、ご飯を食べて、おばあちゃんが来て、お仕事に行くのを見送って…家族で集まるのもご飯を食べるのも夕飯の時だけでした。甘えたいさかりにも満足に甘えた事がなくて、人への甘え方が未だに分かりません。

お父さんが居なくて寂しいと感じた事もあったけど、私にはお母さんもお姉ちゃんもおばあちゃんもお兄ちゃんも居て、消えるまではいかなかったけど段々とその気持ちは薄れていきました。

一度だけ、お母さんに「何で離婚したの?」と聞いてみた事がありました。答えは「我慢出来なかったから」というシンプルなもので、それが何なのか、幼心にもその先は聞いてはいけないような気がして聞けませんでした。

 

大人になって働き始めて、親切な男の先輩、頼りになる同期に恵まれ、よくその三人でご飯に行く事もありました。男の先輩はよく冗談で「俺も〇〇ちゃんも三年後恋人が居なかったら付き合おうか」等色々と言ってくる人で、(あぁ引っかかっちゃいけないタイプの人だな)と思っていたのに親身になって私達を守ってくれる姿に、いつの間にか好きになってしまっていました。誰にも打ち明けることはできず、本人からも避けるようになり、一年経って、女の子の後輩が出来ました。後輩の子はとても素直で明るくて人懐こくて、誰からも好かれるような可愛い子でした。勿論私もその子が好きで、先輩がしてくれたように親身に接しました。そして、しばらく経ってからその子に打ち明けられました。

「(男の先輩)さんが好きになってしまいました」

相談され、同期の子と一緒に三人でご飯に行き詳しく話を聞いてみると、彼女はよく先輩と二人でご飯に行っていること、どうやら私と同じ事を言われていること、私にも言っていたことは彼女は知らなかったこと、が話題になりました。その時点では私は後輩の子へ好意的だったので、応援する事にしました。

先輩は彼女に本気で言っているのか分からないけど、それでも彼女が先輩を好きなら応援するし、話も聞くし、相談にも乗る。

恋愛に臆病な私の出した答えでした。

私も先輩のことが好きだというのは誰も知らないから好都合だし、知られてしまったら気を遣わせてしまうから、と言い訳をして逃げました。

内心はとてもつらくて、幸せそうな彼女の話を聞く度に胸が痛かったです。

その内、二人は付き合い始めました。

 

同じ頃、工場のグループが変わり、グループのリーダーも違う人になりました。少し厳しいけど明るくて、ハッキリと指示出しをしてまとめてくれる、頑張ったら頭を撫でて褒めてくれる、そんなような人でした。ただ、トラブルで遅延したりすると目に見えてイライラし始めるような、自分の思い通りにならないと気が済まないような、そんな人でした。

グループが変わる前と同じように仕事をしていたのですが、何故か突然、私はその人から嫌われました。理由は未だに分かりません。他の人と笑顔で会話していた直後に私を睨みつけ、自分はお喋りをしていたのに見つけたミスの報告の順番で怒り、用事で話しかけても素っ気ない態度を取られるようになりました。心がどんどん沈んでいきました。理由も分からないから何をどう直せばいいのかも分からないまま毎日を過ごしました。

どうしたら怒られないんだろう。

どうしたら、何をしたら、どう動いたら。

前みたいに私にも笑ってくれるんだろう。

誰かに相談しても、きっとリーダーが正しいだろうからと思ってしまって、私は自分がますます浮いてしまうような気がして何も言えませんでした。

毎日怒られないように、気を逆撫でしないように、なるべくイライラさせないように、必死に考えて動いて、朝は誰より早く来て清掃、お昼休みも返上でオペレーターの仕事、トラブルが起きてもなるべく残業が無くなるようにフォローしてサポート。

頭の中は毎日パニックでした。始業から終業まで、リーダーに怯えながら過ごしました。

そんなことが続いたとある日に、また別の先輩にポロッと「最近ちょっと、精神的につらいです」と零したら、「自分でそう言えるうちは大丈夫」と笑われました。

また別の先輩には、「〇〇ちゃんは甘えてる」と影で言われてるのを知りました。

家族以外の人間が、信じられなくなりました。

段々と一人になる時間が増えて、社食へも行かずに自分のロッカーの前でお昼休みを過ごすようになり、遂には孤立して誰かと話す事も殆どなくなりました。

そんな私の異変に同期の子と男の先輩は気付いてくれて声をかけてくれたけど、私より大変な同期の子にこんな事を抱えさせたくなくて、「大丈夫」と言いました。

男の先輩へは信頼が薄れてしまった事もあり、また、「甘えてる」「自分でそう言えるうちは大丈夫」その言葉が頭をよぎって、「大丈夫です」と言いました。

 

いつの日だったか、会社に行けなくなりました。

朝起きても布団の上から動けず、身支度が出来た日があっても、外に出ていつもの通勤のルートを進むうちに足が止まり、欠勤の電話をしてしまうようになりました。

きっとこんな事をしていても何も解決はしないし、余計に嫌われるんだろうなぁなんてぼんやり思いながら、好きだったものへの執着もさっぱりと無くなり、この世に対して何も未練のない無気力な日々を過ごすようになりました。